昭和50年08月04日 朝の御理解



 御理解 第79節
 「商売をするなら買い場売り場と云うて元を仕込む所と、売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損の様でも安うすれば数が売れるから、矢張りその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」

 分り切った事の様ですけれども、中々実行の出来ないみ教えです。もうこれは、確かに売り場、買い場を大事にする。しかも十銭のものは八銭で売る。その上、体はちびるものでないから、一生懸命働けとこう仰るから、これが実行出来たらもう絶対商売人は繁盛のおかげを頂くでしょう。もう間違いない。その上教祖様が教えておられる事だからと、教祖様の教えを忠実に守る事になるのですから、お徳を受けるでしょうね。
 教祖様の教えを忠実に守ると云う事ですから、又その御教えを別に致しましてもです、商売人がこの心掛けになったらもう絶対繁盛するです。ところが只、自分と云うものが中心で、神様と云うものが中心でない。只宣伝文句には私の店は、只お客様本位で御座いますと云うけれども、実際は自分の店本位、自分本位であると云う事。私も永い間商売さして頂いてから、本当にこう云う
 御教えを頂きながら、ひとつも実行してなかった事に、本当に恥ずかしいと思うのです。それこそ人が十銭で売るものなら十一銭で売ると云う、その代わり沢山儲けたしこは神様へお供えする。それで良い事の様に思うておった時代があると云う事です。また目先目先の事であったら、商売を上手にするならそれで売れるんですもん。いやむしろ高くしておるから売れると云った様な事すらあるのです。
 私はあの北京時代に、その当時はお酒が一升五円でした。もうどこもここも北京時代には大きななだ辺りの酒造家が何軒も出て来とりましたが、十何軒のじょうぞうもとが御座いました。何処も五円で売るのです。そこで私はね、五円五十銭で売り出したんです。ところが不思議にその五円五十銭のが売れるから不思議です。やっぱり五十銭高いから良かじゃろうと思うわけです。
 ある意味で酒位ごまかしの利くものはありませんからね。本当に分る者ちゃそげん沢山はおらんです。品質がいよいよ良いとか悪いとかはこれははっきりしますけども、まあ大体同じ様なものを良いの悪いのと云っておる。宣伝一つでそれで良いと思い込ませる場合も御座います。ですから、私共信心さして頂いとってそういう様な心掛けですから、本当のおかげを受けられる筈はなかったと今自分で思います。本当の私は商売人、本当の商売人はここんところをですね。
 この売り場買い場を大切にすると思いますでしょうけれども、確かに良い品物を安く売る。それをモットーとする商売人なら絶対繁盛するです。ところが、中々人間目先鼻先が汚い。こすいからどうしてもそれが中々出来ない。もうそれを出来る人は必ず成功します。これはもう信心抜きにしてもそう思われます。まして信心さして頂いて、教祖様がああ仰るのだから、教祖様がああ教えて下さるのだからと、教祖様の教えに忠実にならせて頂くなら、もう売れるだけじゃありません。
 繁盛するだけじゃありません。もうお徳を受けるです。昨夜私は両親の部屋に新霊様をお祀りして御座います。今子供達が皆御本部へ参拝させて貰うとりますから、誰も寝む者が居らん。何時もあそこには誰か居りますけれども、昼は妹達が来て呉れとります。夜は寝む者が居りませんから、昨日私があそこで一人寝まして頂いた。もう本当に両親の写真を眺め、弟の写真を眺めさして頂いて、何か話しかけて來る様に、もう本当に深い深い思いに浸らせて頂きました。
 そして何か霊様達の言い分と云ったものがあるなら、お夢の中でも聞かせて貰いたいなあと云う思いで寝ませて貰いました。そしたら皆さんご承知の様に、あそこはこう迴り廊下になっとります。鈎の手になっておりますから、お夢の中でです、障子が締まっているその廊下の方へ叔父やら従兄弟達が皆その廊下の方におるんです。それが中に入るのが、気兼ねなと云う感じで居るのです。そこで私が目が覚めてから、ははあ夕べはお願いして寝んだ。特に母の御霊様のもし言い分であるとするならば。
 親戚を大切にせよと云う事だなと思いました。それは商売人にとって身近なものは何と云ったってお客様であり、または仕入れ元で御座いましょう。だから商売人は一番身近なお客様を大切にしなければならないのですけれども、只売らんかなの大切であっては、本当の事ではない。本当に縁あって、そしてお客様として家の店をひいきにして下さる人を親身に大事にする。親身に仕入れ先を大事にする。云うならば、信心で大切にすると云う事にならなければなりません。
 私は今日は昨夜あちらに寝ませて頂いて、それから思うた事また今朝からお夢を頂いた事、商売をするなら買い場売り場を大切にせよと云う所を、信心をするなら身近な人を大切にせよ、親戚を大切にせよと云う風に感じるのです。そりゃもう親戚じゃけん大切にしとると云う事ですけれどもね、不思議と案外大事にしていないですね。皆さんも一つ思うて見てご覧なさい。特にこれがこと信心になりますとね、さあ成程身近な者に自分が信心を頂いて有難いと思いますからやっぱりお話もしますよ。
 お導きもしようと思うて話しますよ。ところが中々親戚はついちゃ来ない。例えば私の方の例を取りますと、むしろ反発を致しましたですね。その当時まだ叔父達も叔母達も、椛目時代にはおりましたけれども、叔父達は本当に私が改式をした事に対して、私を怒りました。永年仏教で来とるとに、信心するだけなら仕様が無いのに改式までしてしもうてと言うてですね、段々分かって呉れる様になりましたけれども、信心には何とはなしに空々しゅうなりましたです。盆、正月でん来んごとなったです。
 だからこちらの気持ちとしては、もう信心のない者ばっかりは仕様がないと、云う風に軽く見る様になるし、向こうとしては段々、云うならば、人が助かる様になり繁盛するし、家が立派になって行ったりしますと、尚こう寄り付かれん様になった感じでね。さあ、何かしに行くというの時には來ると致しましても、親戚付き合いが前の様に親密になくなって来た。そしてむしろ反発的に私の悪口なんか言う。叔父なんかとっても良い人ですけど、夫婦ながら反発をしてですね。
 何かまあ妙な信心を凝る様になりました。信心が繁盛し出してから、もういっちょ他の信心してからと云ったものがあったんじゃないでしょうかね。そんなものを感じましたです。何かこう相対した感じですね。まだその叔父叔母はおかげで父の弟になりますけど、二人とも今病院に入院しとります。それで今こそ自分達の頂いとった信心が詰まらぬ信心じゃったと分かっておるだろうと私はしげしげと妹と家内を見舞いにやります。それで合掌して喜ぶと云う事で御座います。
 本当に身近な者だから、親戚だから大切にしておる筈ですが実を云えば大切にしていない事に気が付きました。特に私の母は父方の親戚を非常に大切にしました。そういう様な母の願いであり、言い分であり、もちっと親戚の者を大事にせろと云っているのじゃないかと思わせて貰って、改めて考えさせられた事で御座いますけれども、ま云われたけんするのじゃないけれども、本当に心を込めてこれから大切にせなければいけないなと思うのです。例えばああして告別式なんかに参っておりましてね。
 成程私は特にここは誰々さんの控え室と云う事をするのですけれどもね、親戚の者の控え室なんか作った事がなかったのです。だから三人四人あちらこちら廊下をうろうろしていて親戚の者が居る所がなかった事をこの頃耳にしました。それは手落ちだったと思いますけどね。そしてこれ程有難い信心を頂いておるのですから、親身に話をする。親身にこの人ばかりは言うて聞かせても分からんと云った事ではなくて、本当に親身でやらせて貰う。これはまあ外から見ましても。
 先ず第一に一家中が信心をすると云う事ですけれども、その一家中がもう親戚中が信心する事になって参りますと、やっぱり金光様ちゃよっぽど有難い神様じゃろうと周囲の者も思うでしょう。所があそこは、一生懸命金光様に参り御座るばってん、兄弟達は参んなさらん。親戚の人達は信心し御座らんけんと云う事になります。そういう有難いものを感じるなら感じる程、私は親戚を大切にすると云うか、身近なものを大事にする、隣近所を大事にすると云った様な行き方が欠けておるのじゃないかと思う。
 一遍は確かに隣近所であったり、親戚であったりする者に話すです、有難い事を。所が一遍どん云うたっちゃ聞かんです。二遍も三遍も家はこげんおかげ頂きよると云うと反発する様になるです。そうするともう、あれだん構わんと云う心が起きて来ておるですね。すでに確かにもう言うて聞かせたっちゃ、あれだん分からんけんでと云うてもうあん奴だんになってしまうです。それでは中々付いて來る筈はないなと改めて思うです。今日私は勿論、十銭のものは八銭で売ると云った様なね。
 サービス精神がなからなければでけません。これならばもう絶対繁盛疑い無し。しかも教祖様が教えて下さる事だからとそれを例えば、断行すると致しましょうか。お徳を受けるでしょうね。繁盛するだけではない。と云う様なここは御教えですけれども、今日は昨夜から今朝にかけて私が思う事、商売をするなら云うなら信心をするなら身近な者を、隣近所の人達を親戚を本当に心から大切にして、隣近所から先ず付いて來にゃおられんと云う程しの内容を作って行く。親戚中がお道の信心になるならばです。
 それこそ燈台足元暗しと云う事があるのですから、確かに隣近所の方がお導きしにくいです。今云う様に反発がある。かえってむしろあれ達がと云う見方をされておると、こっちもそれに負けず劣らず、あれどんが幾ら云うて聞かせたっちゃ分からんと云う様な、云うなら軽く見ると云うかね、人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと教祖様は断言して仰っとられます様に。
 軽う見とらん様であって、むしろ云うならば親戚、隣近所を軽う見とる事はないだろうか。私は今日改めてそれを思わせて貰いましたね。一つ親身に一遍言うたから二遍言うたから反発するからと諦めずに、親身にこういう有難い信心を頂いておるのですから、その有難いものを隣近所にも身近な親戚にもです、売り場買い場を大事にせなければならない様に、身近な人達を大切にするところからです。
 これは本当のおかげが固まって來る、信心が固まって來る。それは一家が勢を揃えれば、信心が固まったと言う様になる様に、自分の隣近所からおかげを頂かせて貰わにゃならん。夕べは私は、やんがて十二時近くだったでしょうか。出て参りました。そしたら直方と矢部の方からお参りがあっとりました。直方はこの頃毎晩遅いです。御夫婦で行本さん達が参って参ります。
 只矢部の方から参って来とるのは、後藤さんと云う大変篤信の信者で御座いますが、本当にその後藤さんがおかげを頂き出したら、矢部地区に金光様のあの山の中にね、それこそ夜は猪の出る様な所で御座いますそうですけどね。皆がその後藤さんに付いて來るです。それで私は昨日、末永先生が、先生は必ず夜中に出て来なさるですからと、云うたそうですから。なら起きなさる迄末永先生の部屋で待っていると云う事を聞きましたから、一口申しましたから、二階から降りて来ました。
 皆二人の方を新しくお導きして来ているのです。話を聞くと何かもう大変な用事があって出来なかったけれども、それを片付けて貴方達が参るなら私が連れて行こうと云うて参って来た方達だったんです。そのお導きのね仕方が実に親身です。そしてどちらかと云うと、村から軽う見られとった人が、この頃人間が出来て来た。この頃から家は丸焼けになった。けれどもその後におかげを頂いているおかげが。
 余りにも目覚しいおかげを頂いたので、近所の者が目を見張る様になった。それで何かがあったらすぐ行って、一回は二回も三回も行ってお導きをする。あの選挙の時なんかは、もう町会議員の家を回ったり、村長さんの家を回ったりしてから、お導きをする。村長さんが御礼に出て来られましたです。そりゃ本当に素朴な信心をしますけど、その隣近所でもね、固まって行く事は素晴らしいです。
 どうぞ一つ、おかげを頂いて縁があったらお導きをしようと云うのでなくて、隣近所と云うものが既にあるのじゃないかと言う事です。親戚と云えばもうこれ以上の関わり合はないです。それを私共が何か軽う見ておる、いわゆる大切にせよと言われるのに実を云うたら大切にしておらない事に、これは私自身改めて気付かせて頂いてね、愈々大切にさせて頂いて。先ず自分の足場から隣近所から、親戚からと云う様に固めて行く様なおかげを頂かせて頂いたら有難いですね。
   どうぞ。